公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『星回帰線』 / パルコ・プロデュース 演出: 蓬莱竜太

“分”の話。あるいは、それをわきまえるということ。

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ものすごくモダンスイマーズっぽいなと思ったんだけど、演出まで蓬莱が手がけていれば、そうなって当然なのかもな。例えば 『母と惑星について、および自転する女たちの記録』(演出:栗山民也) では、こうは思わなかった1。劇団がもっと若ければ、モダンで演っててもおかしくないくらい。ただ向井理のための役だけは、やはり外部から引っ張ってこないと駄目か。

プロデュース公演の場合は集客力をつけるためか、看板となる主役に顔の良い俳優をあてがうということがほぼ必然的に起きる。それは時に容姿と本の乖離を生むように感じる2し、それを感じた瞬間からものすごく醒める場合もある3。本作ではそれを逆手にとった書き下ろしを行っている。顔の整った人間もまた人間であることや、容姿とは相関しづらい内面の良し悪し、あるいはそれらの複合としての“分”を描き出していて、観たい蓬莱の舞台が、やはりそこにあった。

蓬莱の芝居は、彼の演出か否かに関わらず、目に焼き付く美術効果が多い。特に地方や異邦を描かせると際立つものがあると、今年観た 4 本を比較して4思う。本作では最終盤の灯子[演:生越千晴]の出産に重なるようにして、北海道は北の空の天球がぐるぐる加速しながら渦を巻く光景。劇団公演よりも豪奢な、プロデュース公演らしい演出は、冷たくて非常に美しいと同時にグロテスク。

整った容姿であったがゆえか、産婦人科での担当患者から訴えられてしまった青年医 三島[向井理]は、恩師[平田満]が苫小牧で営むスロウな自給自足コミュニティ「白樺ハウス」へと逃げるように転がり込む。しかし彼の“分”をわきまえない振る舞いによって、転がり込んだコミュニティがもともと内在していた、“分”を超えた歪みが顕在化していき、コミュニティの全員が傷ついていく。

最近は整形で後天的にも比較的どうにかなるのかもしれないとはいえ、生まれてくる時点では選べない容姿。内面の“分”が外面をもて余すときに起きうるトラブル。

あるいは、コミュニティの“分”を逸脱した容姿をもつ人間が現れたときに訪れる、コミュニティクラッシュ。

そして、突如として大金をもたらす宝くじ。本来の“分”をはるかに超えた大金を手にしたときに狂うのもまた、人。

“顔”と“カネ”とが偶然“分”を上回ってしまったときに起こりうる、避けようのない悲劇の話だなと思った。

イケメンがわきまえるべき“分”なんて衆人にはわかりっこないですよ、とでも言いたくなる僻み根性に対して、向井の顔の小ささと脚の長さ、そしてか細い演技が反撃してくる。「イケメンだって傷つくんですよ」という繊細な暴力性をもって。ラストシーンで「自分の“分”に戻ります」と決意を独白したところでは、もしかするとこの人は帰らずにこのまま死んでしまうんじゃなかろうかという、清々しい絶望感すら纏っていた。

以下、完全に余談。終演後、周りのおばさまがたがクライマックスの出産シーンに照らし合わせて、やれ自分の出産はどうだっただの、やれ自分の担当医もあんなイケメンが良かっただのと、もはやレビューではない何かをひたすら交換する、する。観客を傷つける演劇とは、地方生活の現実とは、そして蓬莱が伝えたかったテーマとは。悶絶!

2016 年の芝居おさめ。

  1. 女芝居だったからというのもあるだろうけど。

  2. 例えば PONKOTSU-BARON の『回転する夜』 で、テニミュ上がりの主演俳優が「俺、もっとええカッコで生まれたかった」という台詞を受け持っているのだが、いや貴方そこはクリアしているでしょう、という気持ちになる。

  3. テレビドラマはその最もたるものだと思っていて、だからか全く観ない。

  4. 他 3 本では、 『回転する夜』 における日本海の凪。 『母と惑星について、…』イスタンブール。物語の舞台を前面に出してはいなかった 『嗚呼いま、だから愛。』 からはそういった要素を感じ取れなかったというのも逆説的。