公演中でもネタバレします。Google+ から過去ログも加筆移行中(進捗 7 割程度)。

『バロック【再演】』 / 鵺的

目をひらけ
耳をすませ
秘められた言葉を解き放て
あの呪われた場所で
またふたたびぼくたちがめぐりあうために


natalie.mu


どこがどう変わったのか初演の映像、あるいは台本を観直しながら確かなリファレンスを基に検討することも可能ではあるけれど、2 年を隔てたいま比較のために初演を観てしまうことで当時の記憶のスナップショットが改竄/混濁する可能性もあると思った。ゆえにまず書いて、書き終わって暫くしたら観なおすことにする。

初演スズナリの最前ゴザ列であったこと、初見であったことによる演出の予想のつかなさ、それらが大いに体験を決定づけていて、さながら屋敷の中にいるかのような没入の最中にいたことを憶えている。視点としては洋館に在り続ける死者の魂だった。得体の知れない感染症が少しずつ生活圏を浸食していく中でスズナリに、あるいはあの洋館に閉じ込められるシチュエーション1が変に神経を昂ぶらせていたこともあるかもしれない。

そういった新奇さゆえ展開の比較的細部まで身体が憶えていたこともあったが、今回は初演の没入とは無縁のところに居た。より正確に言えば、劇場という場が没入という体験から距離を置かざるを得なくなっている。飛沫防止の観点から演者と観客の間には「2 メートル」という距離が明確にひかれ、かつてあったゴザ席は取り払われていた2。初演と同じようにつくられた館のセットもそういった「隔絶」を汲みとってか、凶々しさとは異質の、台本設定の通り「作り直された」ような雰囲気をたたえる。

これは良し悪しの話ではない。フライヤーの色彩やコピーが初演と反転しているように、意図的な制御の下にあるようにも思える。何も分からず敢えて無視するしかなかった病魔は、場をどう統御すれば拡大を防ぐことができそうなのか少しずつ分かってきている。

同じように、見えない意志に、家族という組織のかたちに、血という呪いに引き込まれ磔にされ踊らされるという、呪いの場を躰全体で浴びるための没入のしかけは意識的に和らげられ、絶望が、死が、捨象されたのではないだろうか。

創作がわざわざ描くまでもなく国内も、そして海外もそれぞれの先暗さをたたえるようになった今、それらに曝される場は現実だけで充分という厭世感も理解はできる。しかしながらきっと、その頃の創作が絶望や死を照らしていたのは、そこに同時に在る希望や生を掬うためであったはず。

世界が明らかに先暗さへ両足を踏み入れる前からそこにあった作品をもって、初演が象っていたものの裏側を際立たせる試みを図ったのだと思われる今回の再演で、喜四郎のキャスト交代によって御厨家はより機能不全を表出させていた。血や法の下にあたりまえのものとして在る「家族」という関係性には、禎巳とひとみが改めてなぞるようにひびを入れる。光仁はふたたびたちあがった洋館という「家」を、姉妹の始める戦争を眼前に燃やし尽くす。血という境目の外、養子という枠組に在って外からはるかを扶けるというプロットを強く感じた初演と異なり、内側から「殻を破」ることで出てくる破壊の色合い。そもそも自壊が前提にあるような、今回の喜四郎に漂う虚無感。

そして秘書 津山の佇まいの違いが来る。奥野亮子の演じた津山3より神経質にみえる小崎愛美理の津山には、最後の選択でもシングルマザーとしての家庭のあり方に不安定さ/不確かさを滲ませているような感触が強い。このあたりの、わからない現実に対する確信の無さを as is で描いているようなさわりも、今の先暗さ ― 生がもたらす絶望というひとつの象限をかたどっているかのようであった。無論、悲観的でありながらその先にあるのであろう自らの生存意義を掴むために、津山は初演と同じく帰還を選んだはずである。客体的な不仕合せではない、個のそれぞれが至るべき希望に向かうときの、この何ともな寄る辺なさは、初演のあとに挟まれた 『夜会行』 のニュアンスを踏まえての、単なる再生ではない再演が立ち寄った先ということだろうか。


鵺的 第 15 回公演 『バロック【再演】』

  • 作 高木登(演劇ユニット鵺的)
  • 演出 寺十吾(tsumazuki no ishi)
  • キャスト
    • 中田顕史郎:喜四郎(御厨家の婿)
    • 笹野鈴々音:美貴子(御厨家当主)
    • 福永マリカ:紗貴子(美貴子の姉)/霧子(龍郎の婚約者)
    • 葉山昴:龍郎(長男)
    • 碓井将大光仁(次男・養子)
    • 岸田大地:禎巳(三男)
    • 野花紅葉:ひとみ(長女)
    • 春名風花:はるか(次女)
    • 杉本有美:下村(空家管理機構の女)
    • 白坂英晃:田所(建設業者営業)
    • 常川博行:大原(御厨家使用人)
    • 小崎愛美理:津山(喜四郎の秘書であり愛人)
    • 吉村公佑:山城(森に潜む男)
  • 開演 2022-06-11 14:00
  • 於 下北沢ザ・スズナリ

  1. もしくはそれを選択したという事実

  2. そうではなくても座席は今回の最前である A 列ではなかったが…

  3. 奥野版津山は護身用スタンガンを持っていた記憶がない。本当に持っていなかったか、あるいはそれがアイコンにならないような演出/演技だったのか?

ブランニューオペレッタ『Cape jasmine』 / 演出: 根本宗子

くちなし、の花言葉


ovo.kyodo.co.jp


『もっとも大いなる愛へ』 を観ていたか否かで捉えかたかが変わったりするんだろうか。とはいえ自分は観た側であって、どうしてもそこで中てられたものがついて回るから、真っ新な状態でこれを観たときの感情の想像のしようはない。

もちろん『もっとも~』においても言語を介さないコミュニケーション、たとえば抱きしめたり手を握ったりするというオプションを提示していたように、非言語的な選択肢も当時から劇中でじゅうぶん考慮の範囲にあった。とはいえ主人公、特に伊藤万理華の側がどうしても言葉に依拠してしまう性質の人間だったということもあり、始終かなり言葉を紡ぐ側に歩み寄った内容だったと受け取るし、あのあと彼女が本多劇場を後にしてボーイスカウトの「彼」に会いに行くときに、まず非言語よりは先に言葉でぶつかりにいくんだろうなという気はする。

対して『ケープ・ジャスミン』の側だと、『もっとも~』の脳内シミュレーションで主人公(たち)が採りたくても採れなかったオプション=非言語のほうを最後に行使してコミュニケーションがもう少しだけ持続するような結末だったこともあって、その「言葉のない時間を一緒に過ごす」提案の前に現状の吐露を言語で散々やりはしていたにせよ、リリックのないエンディングテーマも相まって非言語コミュニケーションに振ったまとめだなと感じた。

ただこれらの結末だったりそこでの言語/非言語の採択だったりを「対照的」と対比できるかというと、前作でも沈黙の裏で高速に流れているモノローグが示していたように、表出している状況に言葉が介在していようが不在であろうがそこに思考と感覚は根を張っている。すなわち言語と非言語は(字句の上では「非ず」があてがわれているとはいえ)同じ平面上にはあれど異なる成分であって、直交していようとも決して軸の正負ではないはずなんだけど。

加えて非言語オプションの行使をプロットの結末に明示的に組み込んだ今回、話の上では感覚的なコミュニケーションをラストに引っ張ってきつつ、それが逆に説明的だったんじゃないかということも思う。この説明的である、というのは言語/非言語というよりきっと、意味指向かそうでないかという別の扱いかたをするべきだろう。

昨今、特にコロナ禍が一過性のものではなくなってきたことに世間が向き合い始めた今年中盤以降、フォローしていた複数の創作関係者が「時世のせいか受け手が(より)わかりやすいものを好むようになった」ということを言っている(根本もどこかで似たようなことを言っていた気もするけど定かでない)。あるいはここ一年の世相を(特に政治や行政の面で)賑わせた、何かに対して「非」であること、ないし「反」であることもこれに近くて、何らかの存在を前提にしつつそれに対して否定を貫くことでアイデンティティを充足することがいかに容易かったか。そして集団としての感情のうねりがこれら単純・容易なスタンスを採りがちな傾向に今なお拍車をかけているであろうことも感じ取れる。

そう考えると、前作の延長線上にありそうな選択を「言葉のありなし」という言葉で明確に示している本作は、物事の二項化だったり意味づけ、あるいはそのためのガイドラインの付与だったりをしつつテーマを引き継ぎ、扱い直した作品としての印象がやはり強い。そこに、本来こういうアプローチを探るにあたって行う、直交する言語-非言語の複素平面をぐるぐる回転するような思索過程(『もっとも~』劇中の主人公、あるいはそこから本作に至るまでの実時間の流れにおける根本自身が、それをやり抜いてきたのであろうことは想像したうえで)のすっ飛ばしというか、今作だけで考えたときに平面から軸線にひとつ次元を下げたような感じを受けたというか。だとすると慢性化する逼塞の中での表現の未来ってかなり暗澹としてくるんじゃないか。

「選択が意味づけされていてかつ取れる選択肢が非常に少なくて済む状態、でないと何もできなくなってしまう人」がそれこそ本作終盤にでてきて、あれは今の逼塞を生きる人の一側面なんだろうというのは理解できるし、その生きづらさを否定することもできない。ただ、ああいった具体化による共感性具現みたいなのも、意味指向のひとつの射影である気がしていて、『もっとも~』にて「宇宙人」とも形容されたデリケートな重層性みたいなものは、もしかするともうしばらく、あるいは二度と必要とされなくなるのかもしれない。その不可逆性をもってなお、創作は、世界は、「元に戻」る?


  • 鑑賞(劇場にて) 2021-10-06 18:30
  • 鑑賞(配信にて) 2021-12-05
  • 日本青年館ホール

『ヒッキー・カンクーントルネード (2021)』 / ハイバイ

Watch 「ヒッキー・カンクーントルネード」 Online | Vimeo On Demand on Vimeo


これ を書いていた当時は知る由もないが、ちょうどこの前後数日間が東京都の新規陽性判明者数のピーク(さらにいえば 8/13 は一日当たりの都内新規陽性者数の最大値であった1)となった。そういう時期であった東京公演を乗り越えたからには巡業も為し遂げられるのかと思いきや、首都の指標の増減だけでは推し量ることのできないもの、あるいは決断についてまわる遅効性の何かがあったのだろうか、地方公演は出演者の変更2や一部地方での公演完全中止3といった足跡を辿る。

そして 2021 年の「ヒッキー・カンクーン」に立ち会うことをあきらめて書いた上の懸念は杞憂もいいとこで、今回配信された東京公演を見る限り、自分のある種のステレオタイプよりもよっぽど中立的な立ち位置に沿って演出がし直されていたのではないか、というふうに感じる。

みちのくプロレスの日、登美男は外に出たのか?

11/27 現在、Prime Video の 2010 年版4は既に公開終了となっているため確たる検証がしづらい。くわえて記憶が定かであったとしても鑑賞者はあくまで、外で電話している母親の科白をもって「母親の目に映る事実」を想像するしかなかった(当該の場面において、登美男は直接的には鑑賞者の前に姿を見せない)。なんにせよ記憶の範囲では 2010 年版は、みちのくプロレスの地方巡業をその目で観るために登美男が外に出たらしいというところで芝居が終わっていたはずで、8 月の自分はその結末に 2010 年当時の希望と 2021 年 8 月 13 日現在の(個人的な)悲観とのギャップを強く感じていたはずである。

しかし今回はそこが曖昧になっていた。公衆電話のボックスに佇む母親は、興行プロレスの客入りやそれが開演したかどうかの方だけを見ている。綾の後に家を出てくる(かもしれない)登美男の可能性を想像することなく母親の注意はプロレスそのものの方に吸い寄せられていき、そのまま舞台は暗転していく。

もともとこのラスト自体が公演ごとに変わっていたようで5、しかしながらその変遷がどの程度時事性を織り込むのか(あるいは織り込んできたのか)は現在から想像はつかない。そもそも 2010 年版のような結末よりもさらに「外に出た」決断を尊ぶ展開がそうそうあるとは思えないが、あの市中感染の情勢下で鑑賞のために劇場へやって来た人々に見せる 2021 年の演出を「一億総引きこもりからの解放」賛歌のようにしなかったという点では、観に行かないという選択をした人間に対してもその意思を最大限尊重しているようにも思えてくる。当時の様々なイベントが採ったような無観客上演方式を選ぶこともできたかもしれないし、少なくとも 8 月の私もその方向を模索できはしなかったのかと考えたりしていた(このような配信の形態が実現すると思っていなかったので、なおさらだ)。ただ、完全無観客という「観衆総ヒッキー」状態で今回の結末の描き方をすると、却って「外に出ないという選択」の方を贔屓してしまっているように映ったかもしれない。そういった内省もあるのだが、結局のところ登美男が外に出たのかどうかは今回わからないのだから、総てをまとめてニュートラルだったと、そういう捉え方をしている。

あいうえ

2010 年版では「愛」から「あいうえ」への言い換えに造語のような含意を感じた、あるいはそれに近い作為を想像することを肯じるようなニュアンスを見聞きしてとったのだけど、今回はここも曖昧になっていたような気がする。「愛(あい)」だと小っ恥ずかしいから単にアイウエという意味のない言葉に置き換えて話を進めていったかのような演出。2010 年版では強調されていた感のあった綾の、独りよがりで押しつけがましい「思いやり」(=「愛」)への後悔を、2010 年当時の演出では「愛飢え」と文字っていたのではないかと考察してみたりもしていたのだけれど、はなからそんな含意など無かったのだろうか。

圭一、もとい出張お兄さん/お姉さんとは何者なのか

『ヒッキー・ソトニデテミターノ』をみればわかるかもしれないようなので5、機会を伺うことにする。


「ヒッキー・カンクーントルネード」
  • 出演(東京公演「拝み渡り」チーム)
    • 富川一人
    • 藤谷理子
    • 藤村聖子
    • 町田悠宇
    • 山脇辰哉
  • 作・演出 岩井秀人
  • 於 すみだパークギャラリー SASAYA
    • 2021-08-17 19:30 の上演回より

【再鑑賞】『昼下がりの思春期たちは漂う狼のようだ』 / アンカル

千秋楽も観にいってしまった。

劇中つかわれていた楽曲を順不同に、憶えているだけ挙げてみる。


抱いてくれたらいいのに / 工藤静香

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2 幕序盤(だったと思う)。ファミリアこと桜田先生への、少女新貝の想いの代弁である。

オリジナルの工藤静香は声の根幹にあるマッチョさというか、「芯」とも違う(芯なら新貝さんにだってある)獣の眼光みたいなギラつきの常に前面に出ている感じが見えるんだけど、これを伊藤ナツキが歌うともう少しパッシブな切迫が出る。ミュージカルのワンシーケンスみたいな。こうやって役者、もといそこに宿る人格固有のヴァイブスが乗るとカラオケでも素晴らしい。結局それが乗るには酔っ払いの二次会的なオレガーオレガーの自己主張だけではだめで、つまり他者にひらいた自己開示のチャネルがきっと(伴奏としての)カラオケを巻き込んで、伴奏に乗せられてるんじゃなくノせる、力すなわちヴァイブスになる。ただそういうのを密室で顔見知りの人間がやってたりするとまあだいたいどうしても生々しすぎる、というのがあるので私はカラオケには行かない行けない行きたくない。このくらいの距離感でみる他者の眩しさとして受信するくらいがちょうどいい…。

曲も良くて、包み込むような F メジャーキーのイントロから短三度転調、D メジャーキーの鋭さをもってタイトル通りの詞に切り込む瞬間が異様にかっこいい。

夜行性の生き物三匹 / ゆらゆら帝国

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卓球部(この曲がかかっているときは 3 人組である)のテーマ。

久々に PV 見直したけどこの団扇をラケットに対応させていたのだろうか。劇中、小口の素振りがスローモーションになる印象的な演出があるけれど、これも事前にこの PV の記憶を呼びさましたりできていたのならば、もしかしたらひょっとこ踊りの体幹感覚が小口に重なったかもしれない。

林のドーピングは Apex Legends のオクタン。

バンドをやってる友達 / ゆらゆら帝国

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またゆらゆら帝国。『めまい』の方ではなく、流れていたのはこっちのバージョン。

飼育小屋チーム。大河原さん役の大河原さんが解説してたけど1、確かに教室外でのみ関係性が成り立っている不思議な子たちだった。みんな良かったけど特に秋谷の、ちゃんときもいと思ったことをきもいと思ったと口に出して竹野くん(とその創作)に謝罪してるところ。かわいそうで劣っているものに対する情というか庇護欲というかで人付き合いをすることとか、中学生だとそれも変にこじれていないぶんかわいく見えるけど、今なら忌むべき感情であるとして排除しうる。しかしそうなると飼育小屋チームに対する「かわいい」という感情も、やはり良くないものなのだろうか。

大地讃頌 (合唱曲)

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二幕の出だしを飾る、合唱曲その 1。何故いるウト君。何故いるウト君。

ウトユウマがそこに居ることを劇中劇的なメタ展開のようにリードさせておいて、彼は実際ほんとうにクラスに帰ってきていた。「父親から逃げることができなかった」という、彼の家庭背景を考えると絶望的な展開が裏にありながらの、その緩衝材として機能する替え歌である。

意図していたであろう「やんちゃなヤンキー」のロールがなりを潜めてマクベスを読みふけるようになった後の、ウトの細かなアクティビティをあまり思い出すことができない。ゲンらとの絡みもあれっきりではなかったか。どんどん閉じていってしまって最後はどうにもならなくなっていた結果の自宅への放火のようにも見えたけど、シェイクスピアを読むという行動そのものがきっと、神の視点であるわれわれ観客すらも視ることのできない彼にとっての「学外」世界の示唆だったのだろうとも。

ウトの隣にいつもいた石井がいつでも良い味を出していた。演者は元タカラヅカの天瀬はつひ。

巣立ちの歌 (合唱曲)

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合唱曲その 2。自分の記憶の中ではこの曲は輪唱の曲として固定されているので、そういうアレンジで歌わされていたんだろうと思う。

卒業の場面ならやはり落合が作文を読み上げる場面がハイライトだけど、あれは初演の落合が書いたのかな。演劇をしなくてもいい自分。

演劇をみなくてもいい私、はこれを 2 回観にいってる時点で無理だな。

FACES PLACES / globe

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竹野くんの見た夢の中の群舞。

飼育小屋で小室哲哉が好きだという言及がひとことだけ為されるのが選曲の伏線になっているとはいえ、これがほぼ脈絡なく劇場に大音量で響いたところで鳥肌。小室曲の具体的な曲選と挿入箇所は想像がつかないし、おまけに群舞までつけてくるところが本当に最高。ゆらゆら帝国にしろ合唱曲にしろ、工藤静香に至るまでそうだけど蓬莱竜太の劇伴セレクトは自分と遠くなく、あるいは遠くとも琴線に触れてくる。今回はその物量が圧倒的だったというのもあって二度も観にいってしまったところがあった。

この曲、C キーで書いてたつもりがどういうわけかギターのマジックで D キーに行ったのではないか、みたいなことがまことしやかに言われている2。確かに C(C キーのトニック)で始まって D(同じく D キーでのトニック)で終わる 18 小節 1 コーラスは、部分転調と呼べるような理屈で接着しているようにはきこえない。ただ行って、帰ってきてるけれど気づきづらい何か。実際自分でもコードを採ってみてほぼ全編を(セブンスすら含まない)三和音で書けてしまったこの譜面のツラは、それだけ追うと何が凄いのかを捉え難い。その曲展開が抱えるエネルギーの実際は、原曲は勿論だけど最近の、というか今年の音圧で採られた千秋とマーク・パンサーのコラボ動画で確認してみてほしい。これもカラオケなんだからやっぱり人間に必要なのはヴァイブス。圧巻。

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『昼下がりの思春期たちは漂う狼のようだ』 / アンカル

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「学生時代に戻りたい」という想いの背景には、いかなる含みがあるのだろう。時間を遡行したいという希求に囚われるとき、遡行願望ゆえの(現在の)記憶の保持と過去の「リプレイ」、あるいは過ぎしタイムラインの改変願望も前提として織り込まれている可能性はないか。だとすれば、事実上不可能なその遡行/改変願望に対しては、学生生活を題材とした創作が、最も近い欲求昇華の機能を果たすのかもしれない。

その場合、役者が等身大でない方がむしろ鑑賞者の感傷を増幅しうる可能性に思いを馳せる。今回のように 10 年後から振り返るようにリプレイされる芝居において、あの頃中学生だった自分たちをを 20 代半ばを中心とした座組が演じることが、学生演劇の瑞々しさとは大きく性質を異にする役者たち自身のノスタルジーの、所々に入り込む余地を生むのではないかといったような。ターニングポイントの確信。衝動への後悔。あの頃の自分への問いかけ。演者に内在化されたそういったエネルギーをエチュードによって抽出していき、多層的な青春群像劇としてまとめ上げたのが本作初演だったのではないかと思う。

…見逃したことを些か後悔した演劇引力廣島の演目が、まさか再演されるとは思わなかった。それは座組の持つエネルギーの奔流を、その期間に限って固定する手法としての作劇だったらしいと知っていたからで、なかなかそのような一回性の演劇を再演するということ自体、成立しにくいと思い込んでいたから。そういった文脈の作品をタイトル・役名(役名は一部を除いて初演の役者の名前をそのまま使っており、再演においても初演の役名が引き継がれている)そのままに再演していることからも、今回は初演とは異なる「他者発のエチュードのトレース」が上演テーマのひとつになっていたような匂いがある。一部の役者は初演と同じとはいえ、それでも多くが「他者によって咀嚼されてゆく初演の少年少女たち」であるという構造は、やはり青春の追体験という側面を強めるのだろうか。

この再演を成立せしめたのは、2 年弱の中で喪われた数多の上演芸術と、それらを内々に蓄積し続けた役者たちのあてどなかったエネルギーであったのかもしれないし、あるいはエチュードから作り上げていくような堅実に寄り添えるワークショップを、未だに開催しづらい稽古事情の関係かもしれない。いずれにせよ、今だからこそ触れたくなるような空気感をもって少女「ゲン」と共に、それは広島からやってきた。恨(ハン)に根ざしているのであろうソジンと彼女の母の行動は、初演のソジンの役者である李そじんや彼女の所属する劇団である東京デスロック多田淳之介の持つエッセンシャルな部分を受け継いでるのではないかとも感じることができるけれども、 『母と惑星について』『まほろば』 に見え隠れする蓬莱自身の家庭/母親像ともオーバーラップする。荒涼とした、それでいて湿度もある陰。このあたりの心的なテンションは昨年の 『外地の三人姉妹』 だけでなく、偶然か必然か今年復刊した柳美里『8 月の果て1』ともリンクする。ノードが大して離れていないからなのか、あるいは心象はこのようにシンクロするものなのか。繰り返すが、本作は成り立ちを考えればその場限りの上演となっていたであろう作品の再演に見て取れるのに、だ。


  • 出演(太字は初演からの続投)
    • 天瀬はつひ
    • 安齋彩音
    • 池ノ上美晴
    • 伊藤麗
    • 伊藤ナツキ
    • 榎本純
    • 江原パジャマ
    • 大河原恵
    • 大西遵
    • 小口隼也
    • 笠原崇志
    • 蒲野紳之助
    • 堺小春
    • 田原靖子
    • 中野克馬
    • 名村辰
    • 南川泰規
    • ばばゆりな
    • 藤松祥子
    • 益田恭平
    • 瑞生桜子
    • 森カンナ
    • 山岸健太
    • 山田綾音
    • 山中志歩
    • 山西貴大
    • 吉岡あきこ

『ヒッキー・カンクーントルネード (2010)』 / ハイバイ

natalie.mu


現在上演中の最新再演版を観にいこうとチケットも取っていたが、昨今の状況があまりにも悪かったので代わりに(というのもなんだが) Prime Video で配信中の 2010 年版 を観た。

「あいうえ」

後半の圭一と綾との会話に出てくる単語。意味するものやそこに当たっている字については台本が手元にないから分からないけれど、登美男への思いやりのつもりだった「愛」に対して常に自分が必要とされているという見返りを期待していたのではないか、という綾の告白の内容から考えるに「愛飢え」「愛餓え」あたりなのだろうと思う。10 年前といえばまだ承認欲求という言葉も広く定着しきっていないような時期1で、もしかすると昨今の再演では承認欲求のような、より親しみのある言葉に翻訳されているのかもしれない。厳密にはベクトルとその作用の順が「あいうえ」と承認欲求とでは異なる気がするのと、前後の言葉の関係や韻のニュアンスまでを含めると、分かりやすい言葉が出てきたとしてもなおここは「あいうえ」であるべきなのかもしれない。

韓国での上演時には韓国で「引きこもり」という観念に対応する言葉が無かった2らしいという話もそうで、戯曲自体が「今まさに古典にな」ろうとしている中で、時世の変化に敏感なこういった部分がどう変容していくかを追うことも再演の醍醐味のひとつだろう。だからこそ、できる事なら今回のバージョンを見たかったところではあるのだが。

圭一は何者なのか

過剰適応症「飛びこもり」の患者にして実験体、といった設定がどこまで(劇中の)真実なのか、みたいな点は気になった。圭一の行動をトレースするに、過剰適応であること自体はおそらく事実。団体によって実験対象にされているのかどうかについては、黒木が圭一を連れ戻そうとしているときの会話における前提(「4028 番」「部屋でまだ実験が残っている」)そのものに対する否定を圭一はしていないことから、少なくともそういった設定が彼に刷り込まれている(これも圭一の過剰適応の一側面かもしれない)ところまでは読み取れる。が、これだけでは事実性と、そのように刷り込んでいる出張お兄さん/お姉さん側の目的が分からない。それもこれも黒木が最後まで何者なのかよく分からない演出になっているからで、これに関しては演じているチャン・リーメイの表情のつき方が悉く秀逸。

  • 「お買い物療法」に飛びこもりの楽園をみた圭一が、出張お兄さんという属性を使えばどこへでも飛びこもれるうまみを知り、本物の出張スタッフがいない隙に正規スタッフを装って登美男の母と面会した
  • 正規スタッフたちは圭一の行動を制御するために、突拍子もない設定をいくつかでっち上げている

といった線が妥当だろうか。

どう「古典にな」ろうとしていたのか、あるいは「し」ようとしていたのか

ステイホームということばの下に家から出ないという選択的行動が正当化・推奨され始めた、いわゆる「第 1 次緊急事態宣言」。その布令下に公演延期が決定されたのち、一年越しに上演にこぎつけたのが今回 2021 年版の再演である。初回の宣言解除という出口に人々が夢みた再び外に出ることのできる世界像は、本作のラストで観客が登美男にみる希望と非常に近いものを持っていたのかもしれない。宣言下で巣ごもりを余儀なくされた多くの「引きこもり」たちに、何らかのより普遍的な意味を持ってラストシーンは響くであろうことは予想できる。

一年の順延を経てもなお、この芝居の持つその精神性は喪われないはずだった。少なくとも公演の振替日程が決定したころまでは。しかし、感染第 5 波の急速な拡大と上演日程とが運が悪いにも程があるタイミングで重なり、「それでも我々は外に出るべきではないのか」という芝居のテーマと、今「外に出る」選択するという行為が招きうる結果との間に大きな乖離が生まれかねないという非常に歪な構造の中、上演は決行されることになってしまった。

少なくともしばらくの間、人々はステイホームを忘れることはないだろう。引きこもりを描いた作品もこれを機に古いものになるかもしれない。ただ、どのように古典化できるかという過程と文脈は作り手には制御できないし、するべきでもない。それは多くの場合、受け手によって決まっていくことが多いのかもしれないが、図らずも今回のそれはウイルスによって決まるとでもいったような様相を呈している。そんな中で上演が決行されることによって引き起こされかねない副作用というものが、きっとある。

最終的に人々は外を向かなければならないが、それでも今はそのような時期ではないということ。あまりにも展開が劇的で、しかもそれらがオリンピック開催まわりの政治判断によって曖昧になってしまったという背景もあれど、その政治判断に際して問題視されたものと同じことを結局、上演芸術もずるずるとしてしまってはいないか。あまりにも酷いタイミングになったという側面はあれど、今まさに変質しようとしている観念を扱う作品の作り手として、もう少し別の手段も模索できる可能性は無かったのかという思いを、引きこもることを選択した側の視点から馳せてみる。この考えもしかしながら、作り手ではない=「レスラーじゃない」人間による、多数の人々が関わる興行というものへの思慮が充分に足りているとは決していえない視点であろうことも、忘れてはいけないのだと思う。


「ヒッキー・カンクーントルネード」の旅 2010

作・演出 岩井秀人

『夜会行』 / 鵺的

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万人に観る準備ができているようなテーマではない、というと語弊があるかもしれないけれど、そこまで世界が進んでいないからこそ今、2021 年という劇中設定1で本作が上演されているということに違いはない。かつ、準備ができているのと鑑賞前後で価値観に変化が加わるのとは全く独立の事象で、後者は実現され得ないのではないかという気もする。あくまで予てから内在化されていた価値観を漸く意識的に視ることになるか、既に意識はしているものをわかりやすい形で咀嚼する機会を与えられたか、程度にとどまるのではないかと。

というのも、鑑賞した後に会場の外にて、きっと変わらなかったであろう人々の会話を聞いてしまったからだ。劇団が従前より使ってきた演出ほかの技法が今回でてこなかったことに関して茶化しともお道化とも取れるような斜からコメントすることが作法2とでもいうような、その解けない呪いのような語り方が、慎重で真摯な考えを積み上げて作られたであろうこの創作の意図していたものを見ないようにしてしまっているように思えた。視線を逸らすという積み重ねが「空気」となって彼女らをああさせざるを得ない状況を作り出しているのではないかということに、あそこまで記号化された「電話の声」という人物を作中に出すということを以ってしてもなお、気づかないことがある。

というわけで「電話の声」の話もしてみる。自分の(元)交際者が現在、同性と付き合っていると分かった瞬間に「ゲイの友達がいてレズビアンにも理解がある」ロールに翻る過程が、ある種の失笑を呼ぶほどの(実際その役回りを作中で笑里が引き受けている)情けなさで描かれるわけだけれど、この危うさを一言で表すなら「価値観のアップデート」ではないだろうか。価値は外からパッケージのようにやってきて自分にインストールされるものとでもいったような、その無責任さがこのことばに集約されはしないか。とらえどころのない外部化された責任所在が「空気」で、それが現在のマイノリティを取り巻くものの実体なのだとしたら、冒頭で言及したように鑑賞前後で価値観に変化が加わるというのは本質的に実現され得ないどころか、仮に実現された場合、その変化は却って「空気」の強化に加担しかねない。そのくらいきつく警告を発していたような気がする。当然、作り手には受け手らの感受性にレンジが存在することもわかっているはずで、だとすると外で聴こえてきたようなあの会話も須く上演の延長に配置される…されてしまうのではないか。ある意味で、舞台上でわかりやすく描写される暴力表現なんかよりもよほど沈鬱とした後味を引き出すことを選んだのではないかと疑ってしまうほど、本編での演出は(湿ってはいながらも)静謐さを湛えていた。

作中ではその役回りの大部分を遼子が引き受けていたように、マジョリティがマイノリティを攻撃するようなことがあってはならないのと等しくマイノリティがマジョリティを、あるいは異なるマイノリティを裁くようなことがあってもならない3…ここがしっかりと描かれていたことで芝居が立っていたような感覚があった。座組が決してマイノリティだけで構成されていないことこそが真摯さの証明(それどころか居たのかどうかさえ判然としない)。福祉課の窓口に立つ人間がそこを訪ねる人間と完全に同質の境遇であってはどうしようもないことも、差別的な価値基準とは別にどうにもならない身体的区別が存在すること(廣川と理子の間に如何とも埋めがたい身長差があったのがギミックとして効いている場面があった)も、どれも生々しかった。

  • 作 高木登(鵺的)
  • 演出 寺十吾(tsumazuki no ishi)
  • 出演
    • 青山祥子(贅沢貧乏)
    • 奥野亮子(鵺的)
    • 笠島
    • ハマカワフミエ
    • 福永マリカ
  • 開演 2021-07-05 19:00
  • 於 サンモールスタジオ

  1. 作中では 30 代にもワクチン接種がある程度は行き渡っている。執筆当時に考えることのできた 2021 年像と言えるが、現実にこれはもう少し先の話になるかもしれない。

  2. もちろんこれは演劇であるので、そういった技術の話は為されるべきである。ただし願わくば別の切り口から。

  3. 趣味の話題とは言えこれを(おそらく)無自覚できつくやられたことがあり、当人と知人の関係であることをあきらめたことがある。